伝えなきゃ 伝わらなくって

関ジャニ∞が好きです。

関ジャニ∞“今” という楽曲についてあえて 今 考えてみる。 (ちょこくらんち)

 

おはようございますこんにちはこんばんは。

初めましてお久しぶりです。

ちょこくらんちです。

 

 

関ジャニ∞の「今」という楽曲をご存知でしょうか。

 

 

突然すみません。

またかよ、と思ったあなた。すみません。

そうなのです。また「今」です。

関ジャニ∞さんが6人になって再出発のニューシングル、「ここに」が発売間近*1にも関わらず、収録アルバムであるジャムの次のアルバムGR8ESTが発売されたにも関わらず。

懲りずに「今」の話をします。

 

好きなのです、今が。

 

 

今年の 2018年 FNS27時間テレビ にほん人は何を食べてきたのか?のテーマソングにも選ばれましたね。やったー!

 

 

 

 

私はこの曲がとにかく好きなのです。

 

 

 

どうしてこの曲がこんなに好きなんだろう?という単純な疑問から、

この曲のどこが好きなんだろう?という疑問に移行し、

せっかくだから歌詞についても考えてみようかな、

などという素人の浅はかな考えから

 

「今」について真面目に考えてみることにしました。

 

 

 

 

※ここからは完全に私の個人的な感想・妄想であり、公式の見解ではないことをご理解頂きますようお願い申し上げます。

 

 

 関ジャニ∞ 今

作詞:akira nise

作曲:akira nise

編曲:菅野よう子

 

 

ここからはAメロ、Bメロと部分的に区切って歌詞の意味を考えていく。

青字で「今」の歌詞を引用し、その下に黒字で私の感想を付けていく形をとった。

 

この曲の登場人物は「君」「貴方」

そして視点となる一人称的人物、ここでは仮に「自分」とする。

 

 

いつまでも 此処に居たいけれども

旅立つ夢を 見てしまったことを

 

Aメロは曲のつかみとなる部分である。関ジャニ∞のシングルには珍しくかなり1音目の音が低いなと感じた。

「けれども」という一人称的な言葉から「此処」に居たい、のは「自分」で、ここの「旅立つ夢」を見たのもおそらく「自分」である。

此処に居たい、と 旅立つという語句での対比が既に現れている。

けれども、や見てしまった、などあまりプラスの表現ではないような言葉が次々と並ぶ。イントロでこんなに明るく華やかなトランペットがパパーッ!と響いてからのつかみのAメロ。なんとなくイメージが暗いのは私の気の所為ではないと思う。

「今」という楽曲に対するイメージとして私は "明るいだけではない何か" があるのだが、それを象徴するのがこの部分ではないだろうか。

ただ明るいだけではない、何か がある。キラキラとした明るいメロディーに相反するような仄暗い歌詞こそがこの曲の魅力なのではないか?と感じたのが今回歌詞を考えてみようと思ったきっかけになった。

何度も言うがここはまだAメロである。

 

 

貴方に祈りを捧げるよ

さよなら またいつか 会うまで

 

ここで歌詞唯一の「貴方」が登場する。文字からして恐らく男性であろうか。祈りを捧げるとは何のことなのだろうか。良くわからないが、祈りを捧げる、と聞くと私は神に対する祈りや、鎮魂歌のようなものがパッと頭に浮かんだ。

Aメロからするに、「此処」にいた人間に対してなのだろうか。「さよなら~」が「貴方」と「自分」の会話であると仮定するならば、「さよなら またいつか 会うまで」の次に来る言葉はやはり、元気でいろよ、のような言葉であろう。とすると、この祈り、という言葉は「貴方」の無事を祈っているのだろうか。

「またいつか」から「貴方」と「自分」はさよならの際にまた会う日や、今後の約束などもしていないことがわかる。

 

 

夢を見たから 胸の中から

手を伸ばし君の肩を叩くから

いつか目の前 たどり着けたら

くだらないことで笑い合えるかな

未来を作る 今 今 今

 

「夢」というのはおそらくAメロで出てきた「旅立つ夢」のことであろう。「見たから」という言葉から、この「から」はbecauseの意味であると考えられる。

「胸の中から」というのは心からそう思う、のような意味であると推察される。

つまり「自分」は心から旅立つ夢を見たのであろう、そして恐らく「君」と別々の道を歩く事になったことがわかる。

そして「君」の「肩を叩く」。肩を叩くというシチュエーションを思い浮かべると、通常肩を叩くのは後ろからだろう。恐らく「自分」の位置は「君」の後ろだということがわかる。

「いつか」「目の前」「たどり着」くという言葉からも「君」と「自分」の距離は遠い。果てしなく遠い。

「くだらないこと」で「笑い合える」かなという、「君」と「自分」の親密さが現れている。ここで「自分」は「君」のことを思い出しているようにも感じる。

 

 

見つめても 見えないものがあると

聞こえない 声を聞こうとしては

 

「見つめても」「見えない」

「聞こえない」「聞こう」

のそれぞれの対比が美しすぎる。

見つめることが できる、できない。 聞くことが できない、できる。

ここで見つめるという行為での対比、聞くという行為の対比に加えて

できるできない できないできる の順で書くことによる対比。

そして視覚、聴覚での対比。

 

2番も1番のAメロと同じく、あまりプラスの表現ではない言葉が目立つ。

ここはまさに未来を作る「自分」の努力や葛藤を描いているのではないだろうか。

 

 

彼方に光を感じるよ

おはよう また会えた ほんとさ

 

「光」は希望の象徴である。「彼方」ということははるか遠くに希望が見えたのだろうか。暗いトンネルの中、遠くに見えるうすぼんやりとした光。

葛藤の末、まさに今、道が開けたような、そんな情景が浮かんだ。

「おはよう」ということから「光」は朝日なのであろうか。

さよなら またいつか と おはよう また会えた の1番2番のAメロ同士の対比が美しい。

 「ほんとさ」は誰の言葉なのか。私は「自分」だと思った。

“君、また会えたな。私だよ、本当だって、ここまで来たんだ。”

そんな風に話しかけている「自分」が浮かんできた。

 

 

夢の中から 水の底から

手を伸ばし君の掌つないだ

いつか目の前 たどり着けたら

苦い思い出を 笑える頃かな

未来を越える 今 今 今

 

「夢の中」の「夢」は1番Aメロの「旅立つ夢」のことであろう。その中から、ということは、夢へと旅立った「自分」がその夢の途中であることがわかる。

そしてここでも、夢の「中から」、水の「底から」と、「君」へはやはりかなりの距離を感じる。

2番のサビでは「君」の「掌」をつないでいる。肩を叩くのとは異なり、手をつなぐ、という表現では「君」と「自分」との距離はかなり近づいたように思う。

しかし、「いつか目の前」「たどり着けたら」という思いが「自分」にはあり、必死で手を伸ばして繋いだ手のその先に「君」がいる、のようなイメージか。「目の前」とはおそらく「君」に背を向けているような状態で、「自分」が「君」を追い越したときのような理想を描いているように思える。

「苦い思い出」は恐らく「自分」の努力や葛藤の思い出なのであろう。

「今」「未来を越える」のだという強い決意のようなものが感じられる。

 

 

風が今 強くなる

日が落ちる その前に

君の声思い出したら

さあ 時に乗る

 

「風」とはどのような風だろうか。ここまで明るい未来を描いてきた中である。おそらく追い風である。追い風であって欲しい。

「日が落ちる」という表現から、この太陽は夕日という推測が出来る。

2番Bメロの「光」が朝日であるとするならば、夕日に変わっていることからここで時間経過が伺える。

さらに、「君」の声は「思い出」す対象になっていることから、「君」と「自分」の間にも相当の時間が経過したことがわかる。

ここからも、太陽の様子が「君」と「自分」の隠喩になっている。

「時に乗る」とは「時代の流れに乗る」のようなことなのだろうか。

 

 

 

夢を見たから 胸の中から

手を伸ばし君の肩を叩くから

いつか目の前 たどり着けたら

くだらないことで笑い合えるかな

未来を作る 今 ほら

 

この落ちサビは1番のサビとの変化が最後の「今 ほら」のみである。

大サビにつなげる最後にかけての盛り上がりが印象的なフレーズだが、その文字数が改めて見るとこんなにも少ないことに驚く。

「今 ほら」と変わるだけで1番とは違い、かなり明るい印象を持てるように感じる。

 

 

 

夢の中から 水の底から

手を伸ばし君の掌つないだ

いつか目の前 たどり着けたら

苦い思い出を笑える頃かな

未来を越える 今 今 今

ほら 今 今 今

 

怒涛の「今」だが、不思議としつこくない。むしろ、「ほら」が一つ入る事によって「今」を6つも使用しているにも関わらずスッキリとした味わいである。

「今」、まさに「今」想像した未来を越えていく。という強い決意が感じられる。

ここはやはり聞いた人の印象にかなり強く残る部分なのではないだろうか。初めて聞いた時もサビの「夢を見たから…」や「夢の中から…」ではなく「今 今 今」と思わず口ずさんでしまった記憶がある。

これは、サビの1音目が低く、高音部分が耳に残りやすいこともあり、さらに何度も繰り返すことで「今」というキーワードが突き抜けて印象的なフレーズになるのだと感じた。

 

 

 

「君」と「貴方」は同一人物なのではないか、というのが私の感想です。

どうして表記を分けたのか、と言われると、さよならの時に遠くへと行ってしまう「君」が別人のように思えた、大人びて見えた、のような解釈が相当なのではないでしょうか。*2

 

 

…以上です。

何もわかっていないズブの素人が長々と大変失礼いたしました。

改めて申し上げますが、ソースは一つもございません。なのでこれは考察というよりわたしの感想・妄想として捉えて頂ければ幸いです。

本当は星野源さんニセ明さんが「今」について言及なさっているところから歌詞の意味などを紐解いていきたいと思ったのですが、私があまりニセさんに詳しくないこともあり、かなり探したのですが「今」についてのコメントが1つも見つけられませんでした…

 

私の感想・妄想はだいたいこのようなところですので、もしよろしければ皆様の「今」の解釈も聞いてみたいなあ、なんて思っております。

ご清聴ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

*1:本記事は 第一回関ジャニ∞プレゼン学会 -八月のすべてくれないか- という企画内で発表されたものであり、公開日は2018年8月31日でした

*2:考えれば考える程すばるくんと関ジャニ∞の歌に思えてきて記事書いてる間に3回泣きました